「滅ぼし合う男達」の系譜――『アルドノア・ゼロ』について

 『アルドノア・ゼロ』。この作品は特に今夏のアニメでは最も安定して評判が良かったのではないでしょうか。周知の通り2011年度からアニメ界では「虚淵旋風」が巻き起こっており、虚淵玄脚本アニメは毎年の風物詩のようになっています。その今年度の作品に当たるのが本作です。ところが本作、筆者としてはこれまでの虚淵アニメ(『BLASSREITER』、『魔法少女まどか☆マギカ』、『PSYCHO-PASS』、『翠星のガルガンティア』)とは少し異なった印象を受けました。それは一言で言うと、「作品からあからさまな虚淵色が抜けた」ということです。詳しく説明しましょう。実は筆者は以前に一度虚淵玄脚本のアニメについてまとめて論じたことがあり(「虚淵玄アニメ脚本論――『BLASSREITER』から『翠星のガルガンティア』まで」、『文/芸Vol.4』)、そこでは基本的に「まどか☆マギカ』以降の虚淵アニメは『まどか☆マギカ』の別のバリエーションである/にすぎない」といった見解を示しています。これは換言すれば、「『まどか☆マギカ』以降の作品に現れた「ラスボス」はどれもキュゥべえのバリエーションである」ということでもあります。例えば『PSYCHO-PASS』において最終的に主人公と対立する存在として現れるシビュラシステムも、『ガルガンティア』において終盤で立ちはだかる敵対的なマシンキャリバーのストライカーも、どちらも(『まどか☆マギカ』のキュゥべえがそうであったように)人間とは異なる論理に則って行動するシステム、まさに相互理解の不可能な「他者」として現れてきています。さらにこれらの相互理解不可能な他者としてのシステム/キャラクターは、各作品の世界において生じている大きな問題(『まどか☆マギカ』で言えば魔法少女―魔女の転生システム、『PSYCHO-PASS』では一般の人々の生活が凶悪犯の脳によって管理されているという転倒、『ガルガンティア』では人類が互いの歩み寄りを拒否して分派し戦争状態に至っている状態)の根幹を成す、ないし象徴する存在となっている点も特徴的です。

 ところが今回の『アルドノア』では、そのような、キュゥべえを原型とする「世界の問題を象徴する相互理解の不可能な他者」としてのシステム/キャラクターが登場していません。さらに言えば、アニメに限らずノベルゲームの時代から虚淵作品に顕著だった血生臭い演出(首が千切れる、腐れ落ちる等)が消え、全編を通して違和感を覚えるほどクリーンな画面作りであったということもあります(今作でも唐突に人が死んだり、強いて言えば最終話終盤でショッキングな展開があるにはありましたが、そこでも視覚的なグロテスクさは全くと言っていいほど強調されていません)。

 では、『アルドノア・ゼロ』はこれまでの虚淵作品とは全く切り離された作品なのでしょうか。あるいは虚淵は、作品から自身の個性を消し、単にウェルメイドなモノ作りに向かう方向に舵を切ってしまったのでしょうか。そうではありません。実は本作も、それまでの虚淵作品の系譜からある一つの要素を引き継いでいます。「男同士の戦い」こそがそれです。これまでのいくつかの虚淵作品では、「敵対する二人の主人公が殺し合う」という構図がたびたび描かれて来ました。例えば2002年のノベルゲーム『鬼哭街』では、親友で妹の婚約者だった男(劉豪軍(リュウ・ホージュン))に裏切られ、所属していたマフィア組織を追い出された上に組織に妹を惨殺された主人公(孔濤羅(コン・タオロー))が、妹の仇を討つために組織と旧友への復讐に向かう様子が描かれます。さらに2006年の小説『Fate/Zero』では、勝利者に願いを叶える聖杯が与えられる「聖杯戦争」において、憎しみ合いつつも引き付けられ合う運命を背負った二人の魔術師、衛宮切嗣言峰綺礼が死闘を演じることになります。最後にこれまでも言及している2012年のアニメ『PSYCHO-PASS』では、犯罪を取り締まる公安局の刑事である狡噛慎也と、凶悪犯の槙島聖護が敵対し合っています。槙島に部下を殺された狡噛が相手に強い憎しみを抱いているという点では、二人の関係は『鬼哭街』の濤羅と豪軍の関係に極めて似ています。

 さて、上で見てきた三つの作品における六人の主人公たちは互いに強く憎しみ合い、殺し合っています。単に殺し合うというよりも、もはや滅ぼし合っていると言った方がふさわしい次元かもしれません。ところがその彼らは、憎しみ合いながらも実は互いのどこかに惹かれ合っているという共通点があります。特に本来美少女ゲームの枠内で発表されている作品である『鬼哭街』において、ヒロインであるはずの「瑞麗(ルイリー)」(殺された妹のサイボーグ)との恋愛描写がないがしろにされ、主人公が豪軍との決闘の方に邁進してしまっていることはこれまでにも指摘されています(宇野常寛×虚淵玄対談「すれ違いの先にある奇跡――キャラクターの死と倫理・表現空間とセクシュアリティ・新たな時代の物語」、『BLACK PAST』)。加えて言えば、『鬼哭街』においては濤羅と豪軍という「二人の男」が瑞麗という「一人の女」を愛しているにも関わらず、実は瑞麗以上に互いに互いを気にかけてしまっているという点で、その関係はまさにイヴ・セジウィックの言う「ホモソーシャル」なものになっていると言えるでしょう。

 かなり遠回りをしました。『アルドノア・ゼロ』に戻ります。ここまでの論旨から明白ですが、筆者の主張は『アルドノア』の二人の主人公、伊奈帆とスレインも虚淵作品におけるこの「滅ぼし合う男達」の系譜に連なるのではないかということです。アセイラム姫を頂点とする三角形で捉えれば、この二人の間にもホモソーシャルな関係を見出すことが可能でしょう。互いに「コウモリ」「オレンジ色」と呼び合う二人の主人公。残された分割2クールの後半で、二人が真に迫る死闘を演じてくれることを期待しています。

 

補記1:筆者は第13話のアセイラムと伊奈帆は「生きている」と考えています。

補記2:前述の、これまでの虚淵玄作品で互いに戦い合っていた男たちはみな筋骨隆々の風貌でしたが、今回の『アルドノア』の伊奈帆とスレインは志村貴子のデザインということもあり、前述の虚淵玄作品に登場した主人公たちとはかなり異なった「少年」の風貌になっています。これは『まどか☆マギカ』で蒼樹うめを起用し、「少女」のキャラクターを起用したことと同じ「変化球」的な手法として捉えることができるのではないかと考えられます。

追記(『楽園追放』について):2014年11月15日に公開した虚淵玄脚本の新作劇場アニメ『楽園追放』でも、本稿で指摘した虚淵アニメに特徴的な造形である「人間とは異なる論理に則って行動するシステム」としてのキャラクターが登場しています。それは中盤で登場する「フロンティアセッター」というキャラクターで、彼はAIが自己進化を遂げて自我を持った存在という設定になっています。ところが彼は、本稿で取り上げたこれまでの作品に登場する「相互理解の不可能な他者」としてのキャラクターたち(キュゥべえ、シビュラシステム、ストライカー)とはいささか異なる点があります。それは彼が人間に対して敵対的でなく、むしろ友好的であるということです(その意味では彼は、『翠星のガルガンティア』に登場したもう一機のマシンキャリバーであるチェインバーに近い存在だと言えるかもしれません)。『楽園追放』の脚本が書かれたのがどの時点かは定かではありませんが、インタビューを見る限り企画が立てられたのは『まどか☆マギカ』より以前のようです。本作においてフロンティアセッターは主人公たちと対立する存在ではなく、また本稿で指摘したような、作品世界で生じる問題の根幹を成すほどの重要度をもった存在でもありませんが、もし『楽園追放』の脚本が構想されたのが『まどか☆マギカ』よりも以前だったとすれば、本作におけるフロンティアセッターは、その後の作品に登場することになる「相互理解の不可能な他者」としてのキャラクターたちの雛形として捉えることが出来るのではないでしょうか。

 

執筆日時:2014.11.5

北野武とセカイ系について

大学時代に書いたものです。

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概要:北野武監督の映画作品とセカイ系作品との共通項を浮かび上がらせることで、北野作品に見られるセカイ系的な側面について考察する。

 

北野武の作品は多分にセカイ系的な側面を持っている。

セカイ系とは、「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、『世界の危機』『この世の終わり』などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと」(東浩紀)、「方法的に社会領域を消去した物語」(笠井潔)というように語られる物語ジャンルである。

ここでは特に2002年の『Dolls』を問題にしたい。

Dolls』は二つの点でセカイ系的だと言える。①物語において、②設定・演出面においてである。

①について、『Dolls』の物語では障害やハンディキャップ等それぞれに苦難を抱えた三組の男女が登場するが、彼らはいずれも苦難を乗り越えて前に進もうとした時にどちらか一人か、あるいは二人ともが死を迎えてしまう。そしてこの「前に進もうとした瞬間に唐突に訪れる死(=喪失)」は、いくつかのセカイ系作品(特にPCゲーム)との共通項である。例えば『ONE』(Tactics、1998年)では主人公はヒロインとの恋愛を成就させた瞬間「えいえんのせかい」という謎の精神世界へと引きずり込まれてしまう。また『AIR』(Key、2000年)では、主人公が難病を抱えたヒロインの「側に居る」と決意した瞬間、超自然的な力によって世界から消滅させられてしまい、ヒロイン自身もその後死を迎える(彼らの死は設定上「星の記憶を受け継ぐ」という壮大な目的と関係しており、これは極めてセカイ系的な主題である)。

②について、『Dolls』では山本耀司が衣装を担当している。ところが山本のデザインした衣装は極めて「現実離れ」している。なぜなら何日間も外を放浪しているはずの主人公とヒロインの衣装が、真っ赤なドレスや和服であったりするからだ。しかもそのように何度も衣装の変わる彼らが、何か「荷物」を抱えて移動している様子は一切描かれない。つまり『Dolls』の演出では意図的にリアリティが切り捨てられているのがわかる(実際に北野は山本耀司の衣装を見て『Dolls』に非現実的な演出を施すことを決めたと語っている)。ここで先ほどのセカイ系の定義の一つ「方法的に社会領域を消去した物語」を思い出そう。この定義の上での「社会領域」とは本来は作品世界における「社会」や「国家」の描写のことを指すが、ここでこれを「作品にリアリティを付与する設定」のこととして解釈すれば、意図的に(=方法的に)リアリティのない演出を施された(=社会領域を消去した)『Dolls』は、演出面でも極めてセカイ系的な作品であると言うことができる。

 

その他アイディア

セカイ系作品でしばしば強調される「空」のイメージ(例:新海誠)と、北野作品における「キタノブルー」の類似性

・Key=Tactics作品と北野作品の更なる共通点。例えばその一つとして挙げられるのが「記憶や言語能力を失ったヒロイン像」である。Key作品においては何らかの要因によって過去の記憶を失ったり(『AIR神尾観鈴)、言語能力に問題を抱えたヒロイン(『ONE』上月澪、椎名繭・『Kanon沢渡真琴)がたびたび登場するが、このような特徴を持ったヒロイン像は北野作品においてもその初期から何度も反復されている(『その男、凶暴につき』灯、『HANA-BI』美幸、『Dolls』佐和子)。

・しばしば、身体能力が欠損した登場人物たちの恋愛が描かれる。『あの夏、いちばん静かな海』の男女には聴力がなく、言葉を喋ることができない。『Dolls』に登場するアイドルは事故で片目の視力を失っており、そのファンの青年も自ら両目を潰して視力を失くす。一方、『ONE』の上月澪には聴力がなく、川名みさきには視力がない。

・なお、『Dolls』ではその隠喩的なタイトルにおいて見られるだけでなく、実際に作中に文楽人形が登場するなど「人形」というテーマが作品において一つの軸となっているが、批評家の村上裕一はKey作品について「人形的主題」の存在を指摘している(『ゴーストの条件』p.308)。

北野武作品の劇伴音楽を①過去の楽曲のアレンジのみが使用されたり、音楽が一切使用されなかった初期、②久石譲の楽曲を継続的に使用していた中期、③久石譲の楽曲の使用をやめ、作品ごとに異なる作曲家の楽曲を使用するようになった後期の三つに区分し、なぜ北野が久石譲の楽曲を劇伴に使用しなくなったのか、久石の北野作品からの撤退の意義を論じる劇伴音楽論(セカイ系の分析と絡められれば絡める)。

 

参考資料とか

北野武『物語』(ロッキング・オン、2012年)等、本人が自作について語っているインタビュー集。

前島賢セカイ系とは何か』、限界小説研究会『社会は存在しない』などセカイ系についての文献